サーミ人(?じん)とはスカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する民族。フィン・ウゴル系。サーミ語を話すが、ほとんどがスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルである。ちなみにラップランドとはスウェーデンから見て辺境の地を呼んだ蔑称。彼等自身は、サーミ、あるいはサーメと自称している。フィンランド国内では少数民族として保護されている。北方少数民族として、アイヌ民族などとの交流もある。錫を使った手工芸細工が有名である。
もともと狩猟・遊牧を行なう民族であるが今日、サーミは定住し、ほとんど多数派の人びととかわらない生活を営んでいる。チェルノブイリ原発事故以降、トナカイの汚染が進み、伝統的な放牧生活を送る事はいっそう難しくなってきている。キノコや地衣類などの菌類は放射性物質を吸収しやすいと言われ、トナカイの主食がハナゴケ(地衣類の一種)であることから、特に汚染が進んだと思われる。
かつては「ラップ人」とも呼ばれていたが、近年は蔑称のため避けられている。
サーミ人と思われる民族のことが初めて文献上に現れるのは、紀元1世紀に古代ローマの歴史家タキトゥスによって著された『ゲルマーニア』においてである。この文献では、サーミという名前ではなく、フェンニーという名前で呼ばれている。
「フェンニー」という名は今日の「フィン(ランド)」に通じるものがある。実際、フィンランド人の間に民族復興の機運が高まった当時、このフェンニーこそが我々の直接の祖先であると主張する動きも存在したが、しかしここで挙げられたフェンニーがフィンランド人の祖であるとは考えられない。今日までに行われた研究によると、ここに言うフェンニーはむしろ、東はヴィスワ川下流からウラル山系に向かう地域を点々と長く居住地とし、後にはフィンランド湾の沿岸に至る方面にも来ていた印欧系以外の若干の民族を広く指したものであるらしい。 また、サガの世界にも、交易を行う民として、サーミ人らしき民族について言及している個所もある。
いずれにせよ、それ以後スカンディナヴィア半島に移住してきた様々な民族、「国家」が再びこのサーミ人に注目し始めるのは、13世紀以後、北欧諸「国家」が誕生し、その国境を規定する必要が生じた時であった。
以下、サーミ人の歴史を大きく3つの時代に分けて説明する。
1251年から1550年 [編集]
この時期、ノルウェー、ロシア(ノヴゴロド)王国、スウェーデンの三国間でラップランドにおける国境、徴税権に関する合意が成立する。この合意の下、元々単一の民族であったサーミ人は分断され、異なる国家の、異なる支配体制、徴税体制、司法体制の下に置かれることとなった。現在のフィンランド近郊に居住していたサーミ人は、スウェーデンの支配の下に置かれた。これは、当時フィンランドがスウェーデンの一部に組み込まれていたことに起因する。また、スウェーデンはカトリック教会の支配下にあったが、ラップランドもこの体制に組み込まれた。
コラ半島に居住していたサーミ人(skoltサーミと呼ばれる)は正教会とノヴゴロド公国の支配下に置かれた。また、Skoltサーミはツァーに土地、水に関して徴税を課され、土地登記の義務も負うことになった。
現在のフィンマルク県に居住していた全てのノルウェー・サーミ人はロシアの統治下に置かれた。
このように様々な国家の統治下に置かれたサーミ人であったが、これに先立つ12世紀頃から、すでにサーミ人はノルウェー国王に対し、「ラップ税」を払うことを求められていた。このラップ税とは、そもそも貢納的、人頭税的性格の強いものであり、支払いはカマス等の乾燥魚、トナカイの仔、クジラやアザラシの皮革ロープ等で求められていた。これは、「ラップ」が17世紀までいずれの「国家」の国民なのか明確には定められていなかったため、従来の農民に対するような徴税を課せなかったことに起因している。また、当時から「ラップ」のトナカイ飼育、狩猟、漁労活動が特別な、「ラップ生活様式」として法律の中にも明記、認識され農地税徴収の対象とはなり得なかったことも、その原因の1つとなっている。
1551年から1808年
17世紀初頭、「ラップ」はノルウェーもしくはスウェーデン=フィンランドの国民として「国家」に組み込まれた。この帰属の背景には、ノルウェーとスウェーデン両国間の関係が悪化しており、以前のような曖昧な国境規定は両国間の安全保障上好ましくないものであったという事実がある。
そして1751年、国境条約が締結された。これはデンマーク=ノルウェー王国とスウェーデン(及びその一部「東部地方」であったフィンランド)の間で交わされたもので、ラップランドにおける北欧諸国家の国境を明確に定めるという性質を持ったものであった。しかしこの条約は、決してサーミ人の権利を侵害するものではなかったのである。国境条約・第二条第二項には、サーミ人はトナカイの遊牧をする民族であり、そのためには両国の土地が必要であるということ。同・第十条には、その生活様式を維持するため、両国が公平な援助を行うことを取り決める旨が記されていた。
この国境条約は、サーミ人の権利とその生活様式の正当性を認めるものであったが、しかしこの締結にともない、多くの「ラップ」は定住化の道を選んだ。また、定住化しなかったサーミ人に対しても、相変わらず「ラップ税」は適用され続けたが、この時代になって、「ラップ税」はその本来の貢納的、人頭税的性格のものから、土地や水域の借用税に変化していった。このことが、サーミ人の五つの異なる生活様式を生み出す直接の原因となった。つまり、大規模トナカイ遊牧専業民「山岳サーミ人」、農耕、牧畜、狩猟、漁労を行う定住民としての「海岸サーミ人」、「森林サーミ人」、「河川サーミ人」「湖サーミ人」などを生み出したのである。
上記の通り、「山岳サーミ人」は「ラップ税」の対象であったが、定住農民化したサーミ人(主に羊や牛の飼育を専業にしていたと思われる)は、「ラップ」とは見なされなくなった。そして、「ラップ税」を免除され、代わって農地徴収税を課されたのである。この点から、北欧諸国家の「ラップ人」に対する基本的な姿勢をうかがうことができる。つまりこの措置は、北欧諸国家にしてみれば、トナカイ遊牧という「ラップ生活様式」を続ける、ある種異質な文化、生活様式を持っている者こそが「他民族」であり、自分たちと同じ生活(農耕や漁労)を行うようになった民は、すでに自分たちと同じである、という認識の明示にほかならない。
18世紀後半になると、スウェーデン領においてスウェーデン人がラップ地域を北上し、開拓や植民を行うために定住したため、この地域のサーミ人はさらに北部や東部へと追いやられることとなった。サーミ人の中には、定住したスウェーデン人と混交してスウェーデン化した者も少なくない。
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